ブラジルで働くデータサイエンティストのブログ

ブラジルでデータサイエンティストしてる僕の日記。データサイエンスネタは多分書かない。

海外生活で感じる開放感について

一年以上ブラジルにいるし職を得て労働もしているわけだが、よく聞く、『海外での開放感』みたいなのは現在でも感じている。


この感覚って何なんだろうなーと考えてみると、僕の場合は、乗らなきゃいけないレールが存在していないことによるものだろうと思う。


よくある、『レールの上に乗った人生なんて嫌だ!』みたいな言い方で出てくる『レール』だ。


もうちょいこの辺を考えてみたい。


当たり前だが、ブラジルには『こうあるべき』というレールが存在していないなどということは全くない


社会があり、ルールがあり、良し悪しの概念があるのであれば、『良し』であるためのパターンが確立されるし、それらはレールとして機能する。


簡単な例を挙げるなら、この国では、医者の社会的地位、給料は高い。医者になるためには医大に入る必要があり、国立の医大に入ろうとすればそこそこ勉強が必要。医者になったあとも大体の人は医者として生きていくわけで、おおよそ人生の方向性と振れ幅は決まってくる。


レールへの束縛力に違いこそあれ、どの国でもどの文化でもレール自体は存在する。


それなのに外国人である僕にとって『乗らなきゃいけないレールが存在していない』というのには2つの理由がある。


一つ目。周囲の人が、良し悪し、規範、そのためのパターン、つまりレールというものを外国人である僕が当てはまるものだとあまり考えていない


早い話が、『ブラジル人ならこうするべきだけど、この人は外国人だし。』となるわけだから、既存レールが適応されにくいと周りが思ってくれる。
外国人の特権。


二つ目。そもそも、乗らなきゃいけないレールが見えない


レール、パターンは社会に依存する。社会に対する理解がなければそもそもレールを感じることができない。


ブラジル生まれ、ブラジル育ちであれば何かしらのレールの上に常にいたわけだからそこから先のレールを感じることができる。


外国人はそうはいかない。それまで、その社会のレールの上にいなかったのだ。たとえ、ブラジル人に、説明されたとしても、理解はできようと実感はない。
先にあるはずのレールを感じられないのだ。乗っているはずのレールも実感はない。
地に足が着いている感覚はない。
まぁ、そもそも、レールを感じられたとしても、それが錯覚であることも大いにありそうだ。外国人に敷かれたレールは自国民のそれを部分適用したものであろうし、適用外項目の規模と頻度、種類が掴めない限り、見えてきたように感じるレールは錯覚のようなものだろう。


レールという言葉が使われる時、ネガティブな意味で使われることが多いと思うが、レールの持つ効能は大きい。


乗っかってきたレールに基づき、先のレールが見えるというのはそのまま未来を予測できるということだ。シンプルに安心と安定が手に入る。


先へと続くレールが見えない状況では選択は自由だし開放感を感じられる。
その一方で、何かしら自分の中で頼れるものを確立していないと、安心も安定も感じられない。


その辺は、得たもの失ったものなのかもしれない。